新報
私たちの世界の虚構性|本願寺新報コラム35
本願寺新報 2023(令和5)年10月1日号 掲載
コラム「生きづらさ」
私たちの世界の虚構性
家族や仲間など、人と人とのつながりをあらわす言葉として「絆」が注目されたのは、10年ほど前のことでした。ちょうどそのころ、人間関係の大切さを再認識させるような出来事があったからだと思います。そしてしばらくして、この字に「ほだし」という、もう一つの読み方があることも話題になりました。
もともとこの漢字は牛や馬の足をゆわえつなぐひもを示すのだそうですが、現代ではきずなと読む場合には、「仲間との絆」などのよい意味になり、ほだしと読むと「情に絆される」などのように束縛を意味します。きずなが意識できないとき、私たちは孤独になり、生きづらさを感じますが、きずなが多すぎてほだしになったら、また生きづらく思ってしまう。やっかいなものです。
さて話はまったく変わりますが、お釈迦さまにはラーフラという名前のお子さまがおられました。子どもができたとき、お釈迦さまが「障礙(ラーフラ)ができた」とつぶやかれて、この名前になったと言われています。しかし私はどうもこの話がしっくりきません。そりゃ、ご自分の出家には子どもはさわりになるでしょうが、だからと言って「さわり」という名を付けるのはどうなのか。今の価値観になりますが、子どもにも人権はあるはずだからです。じっさい、ラーフラの祖父に当たる浄飯王はラーフラを愛したと伝えられますから、大切に育てられたようです。それならなおのこと「さわり」は不自然です。
ここから先はあくまでも私の勝手な想像なのですが、ラーフラは大切ないのちをつなぐ者として生を受け、育てられたのではなかったか。私たちが思っている以上に、お釈迦さまは妻・ヤショーダーラとラーフラとの生活を楽しまれ、愛でられ、この時間がずっと続くことを願われたのではなかったか。この時のラーフラは、決してじゃまな存在ではなく、むしろ家族をつなぐきずなであったに違いありません。
ところがお釈迦さまには同時に、実存への問いともいえる問題意識がありました。私という存在をどのように了解していくかという問いです。心のどこかにぽっかりあいた穴のようなこの問いは、しだいに大きく深くなり、やがてお釈迦さま自身をのみ込むほどの深淵を見せ始めたのだと思います。
この問いを極めたいと願われた時、大切なきずなはほだしに変わっていった。まさに「さわり」です。大切にしていたものがわずらわしいもの、捨てるべきものに変わっていくという私たちの世界の虚構性に、お釈迦さまは大きなショックを受けられたに違いない。これにより、後世に「ラーフラ(障礙)」と呼ばれるようになってしまったのではと、私は思っています。
生きづらさというと、最近になって注目されるようになった考え方のように見えるかもしれませんが、お釈迦さまはまさにその生きづらさに動かされたのであり、それが仏教の出発点だったのです。
子ども・若者ご縁づくり推進委員会委員
寺澤 真琴