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「本当の友だち」の呪縛|本願寺新報コラム39

本願寺新報 2023(令和5)年12月1日号 掲載
コラム「生きづらさ」

「本当の友だち」の呪縛

 私が小中高生の頃に悩んだことの一つに、「本当の友だち」という問題があります。いわゆる親友ですね。
 学校の道徳の授業で教わったのは、本当の友だちがいることが大切だというもの。「親友には何でも話せる」「本当の友だちなら裏切らない」「困った時に助けてくれるのが真の友人というもの」「あなたには親友がいますか」などなど。
 何でも話せるって、それほんと? 私は特に隠しごとが多いわけではありませんが、それでも他人に言えないことの一つや二つ、持っているのが当たり前だと思っていましたから、最初の項目を聞いただけで、もう絶望しかありませんでした。いくら『走れメロス』を読んでも、「マラソンとか苦手な僕にはあんなふうに行動できそうにない」し、そもそもどちらかというと内向的だったため、自分の感情や考えを表現することが苦手で、今でも多くの人の前に出るのが嫌いです。いや、本当ですって。
 そんな私が、たまたま縁あって友だちづきあいを始めると、最初にあげた項目の呪縛がふりかかるわけです。「この人に自分のすべてを話せるのか?」「この人は僕が困ったときに助けてくれるのか」「僕は助けることができるのか?」「この人は僕を裏切ったりしないか」「僕は彼を裏切らないと誓えるか?」...。
 忘れもしません。中学生の頃、とあるクラブの部長をしていたのですが、同じ学年の男子がいない環境で(正確には3年生のときに何人か入ってくれました)、クラブの運営をどうやっていいかわからず、内にこもって、ついに親に泣きごとを言いました。「どうしていいかわからない、僕には相談できる友だちもいない」と。
 でも、もし今、同じような質問を誰かからされたら、私はこう答えると思います。「何でも話せる親友がいないと思うなら仕方ない。相談には私が乗ろう。でも、本当の友だちがいないとか悩まない方がいいよ」と。
 〝本当の〟というのはくせ者です。本当という基準を勝手に設定して、状況を縛って不自由にするからです。今の私には、幸い何人かの大切な友人がいます。その友人たちとは、親友になろうと思って付き合い始めたわけではありません。地域とか学校とか仕事とか好きなこととか、いろいろな縁の中でつながり、私の中で大切になっていきました。実を言うと、私が大切だと思っているだけで、向こうはそうでもないかもしれません。お互い、裏切らないとは誓えないかも知れない。でも、「それで十分だ」と、今は思っています。
 作られた「本当」の幻影にまどわされるのはやめましょう。「本当」は今求めるものではなく、後からふり返って感じるものではないでしょうか。この世界の人間関係において、先に「本当」という価値観を表面に出して真か偽かとせまるのは、かえって苦しみを増すような気がするのです。

子ども・若者ご縁づくり推進委員会委員
寺澤 真琴

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