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「生きづらさ」の反対は?|本願寺新報コラム42

本願寺新報 2024(令和6)年2月1日号 掲載
コラム「生きづらさ」

「生きづらさ」の反対は?

 「生きづらさ」の反対の意味を持つ言葉は何でしょうか。私は「自由」と答えたいと思います。
 単純そうに見えて難しいのが自由です。たとえば、自由を「やりたいことを好きにやれる状態」と考えると、決して実現しません。私のやりたいことを実行しようとすると、ときに誰かがやってほしくないことと衝突します。また、自由を私の中に限ってもすっきりしません。自分が好き勝手にふるまったところで、私は自由になれないのです。たとえば、甘い物が好きな私はカロリーの高そうなお菓子をたくさん食べたいと思いますが、そんな私は同時に太りたくないという希望を持っていたりします。この2つを同時に満たすことは不可能です。
 さらに、自由が人間を不安にさせるということもあります。だいたい人間は、「生きたいように生きればよい」と言われると戸惑うのです。とつぜん「生きたいように」と言われても、何をしたらいいのかわかりませんから。自由競争社会と言うけれど、一瞬も気が抜けない毎日を送るのはもううんざりだ、という人もいるでしょう。そうなると、自由すぎるのも考えものだとか、少しは制限がある方がいいとか思ってしまうわけです。
 ひょっとしたら、自由なんて私たちが頭の中で考えているだけで、じっさいに自由になることは不可能なのではないか? そう考えたくなる気持ちもわかります。究極的な自由は、私たちが欲望を持つ限り不可能なのかもしれません。でも、自由という言葉に私たちが反応して、何か好意的な感情を持つのは事実ですから、ある程度は皆がその意味を認めているもの、価値を共有できるはずのものです。
 なぜ私たちは自由に憧れるのでしょう。たぶんそれは、これまでの人生のどこかで自由を感じたことがあるからだと思います。小さい頃に初めて原っぱを歩いたとか、波打ち際で海の向こうに思いを馳せたとか、星空を眺めて無限を感じたとか...。私は自転車に乗るのが遅かったのですが、乗れたときに世界が広がったのをおぼえています。これでどこまでも行けると、毎日学校から帰ると走り回っていました。最近では、学生時代に過ごした東海地方の街を再訪して、二十歳前だった当時に感じた自由を思い出しました。
 それは、まだ世界を知らないからこそ信じられる自由だったのかも知れません。大きくなって現実の世界が見えてくると、自由は次第に埋もれていきます。常識や前例や思惑の中で、遠い存在になってしまうのです。
 しかし、人生のどこかで自由を感じたことがあるなら、その思いは大切にしたいものです。権利でも「べき」論でもなく、人間のあり方を自由と考えたいのです。そして、自由に立ち返るために、あらためて自由とは何か、何が自由をはばんでいるのかを考えてみたいのです。 

子ども・若者ご縁づくり推進委員会委員
寺澤 真琴

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