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共感できる感受性と余裕を|本願寺新報コラム44

本願寺新報 2024(令和6)年3月1日号 掲載
コラム「生きづらさ」

共感できる感受性と余裕を

 「生きづらさを感じるなら、それを誰かに相談したらいいのではないか」という意見があります。もっともな話ですが、案外これは難しいのです。
 生きづらさの原因が、具体的なこと一つに絞れるなら、相談することは比較的簡単かもしれませんし、その前に自分で解決することも可能でしょう。でもたいていの場合は、いくつもの悩みが重なりあっていたり、生きづらさに至るまでの背景が複雑だったりします。説明するには、その全体像を相手に理解してもらう必要がありますが、なかなか骨の折れる仕事です。
 一生懸命ことばにして表現しても、相手に理解してもらえないかもしれない。「よくあること」とか「考えすぎ」と言われるかもしれないと考えると、自己規制してしまいます。また、ひょっとしたら責任は自分にあるんじゃないかと、他人に伝えるのをためらってしまう場合もあります。機会を見つけられないままに時間が過ぎ、相談してもかえって悪い結果をまねくような気がして、結局抱えこんでしまうわけです。去年から問題になっている「性加害」などは典型のように思います。
 でも、やっぱり相談できる方がいいに決まっています。そのためには何が必要でしょうか。月並みですが、社会全体がお互いに関心をもつこと、そして共感できる感受性と余裕をもつことだと、私は思います。実行するのは難しいことですが、実は仏教にはその伝統があったはずなのです。
 お釈迦さまの6番目の弟子になったヤシャという人は、お釈迦さまから「苦しいのですか」とたずねられたことが入門のきっかけだったと言います。ベナレスの長者の子として生まれたヤシャは、財産もあり容姿にも優れ、人格者でもありました。まわりからは、申し分ない人生を送っているように見えていたわけです。ところがある宴の翌朝に、人々が乱れた姿で眠りこけている様子を見て空しさを感じ、サールナート近郊をさまよい歩いていた時に、お釈迦さまから声をかけられたのです。「はい、苦しいです」と答えたヤシャは、まさか自分の苦しみをわかってくれる人がいるとは思っていなかったでしょう。まわりの友人も家族も、そんなことをたずねることはなかったでしょうから。お釈迦さまは、誰にでも、いつでも生きづらさが存在することを知っていて、ヤシャの風貌からそれを感じたのです。お釈迦さまのすごいところは、その後、ヤシャの両親の苦しみも聞いているところです。
 もちろんここで問題にしようとしているのは、自分の煩悩に気づく話ではなく、社会の中にある生きづらさの話ですから、お釈迦さまの例を出すのは少しニュアンスが違うかもしれません。でも、悩みや苦しみは宗教的・社会的と区分けしてやってくるわけではありませんから、まずはためらわずに共有することが、入口として大切だと思うのです。

子ども・若者ご縁づくり推進委員会委員
寺澤 真琴

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