search button

レポート

現代版寺子屋 スクール・ナーランダ vol.1 京都

日 時: 201724日(土)・5日目(日) 10001730

会 場: 西本願寺、伝道院(京都市下教区堀川通花屋町下ル)

対 象: 15歳~29

テーマ: わけへだてと共感

私たち人類は「他者と共感して社会を形成する能力を持っています。同時にそれは「共感する」集団以外を認めない「わけへだて」を生み出すことにもつながります。自己と他者あるいは世界との「わけへだて」と共感について、ロボットや人工知能など新しい技術や音楽・人類学・仏教など、多様な視点から考えました。

講 師: 高橋英之先生(認知科学者

     森本千絵先生(アートディレクター)

     天岸淨圓先生(浄土真宗本願寺派僧侶)

     川瀬慈先生 (映像人類学者)

     環ROY先生 (ラッパー、音楽家)

     小池秀章先生(浄土真宗本願寺派僧侶)


― 講義レポート ―

<1日目>

■「言葉にならない価値を育む」 高橋英之先生

ロボットを研究することで、人間の「心」を見ていこうとする高橋先生。ロボットと人間との違いを探っていく中で大切な概念を「価値観の共有」と示されました。
人間とロボットは本質的なところで価値観の共有ができていないのではないか。ではその価値観をロボットに全て覚えさせることは可能なのか?

実は説明できる価値である「三人称価値」以外に、体で感じ、言葉で語ることのできない「一人称価値」があるとのこと。社会で生きていく中で常識やルールの中で語ることのできる価値は当然必要ですが、それに偏り過ぎるのは危ういとのこと。

語れない価値がおろそかになりつつある現代、あらためて言葉にならないような感覚的な一人称価値をそだてていき、それを三人称価値と結び付けていく。そのバランスがとても大切であることを教えてくださいました。

髙橋先生.png



「目に見えないご縁を表現する」 森本千絵先生

0055_xlarge.jpg

goen゜」という会社を設立され、Mr.Childrenや松任谷由実さんなどのアートワークや企業CMを手掛ける森本先生。
本願寺から発行されている「ごえん」という冊子を当日たまたま手に取った「ご縁」で、急遽それをテキストに話を進められました。

会社名の由来は、金沢の1人のおばあちゃんとの出会いがきっかけとのこと。広告やデザインをつくってきた背景には、様々な人や物事との「ご縁」をつくりたかったのだと、おばあちゃんとの会話から気付かされたそうです。
一見関係ないように見えるものでも、どこかで繋がって、様々なクリエイティブが生まれていき、過去からのご縁が未来をつくっていくのだと、色々な事例を通して教えてくださいました。

後半は実際に参加者が身体を使ったワークも。隣同士で手と手を合わせ、想いを伝えることから始まり、最後は手以外でもつながりました。

「つながってみると隣の人が少し好きになりませんか?」と先生。

参加者同士の距離も随分と縮まった様子で、雰囲気もさらに明るくなりました。
そして最後に、先生が手掛けられたNHK連続テレビ小説「てっぱん」のオープニングダンスを全員で踊りました。会場全体が一体となり、最高に盛り上がった瞬間でした。



■「仏教は感受性を養っていく教え」 天岸淨圓先生

初めて仏教の話を聞く人の多くは、どんな雰囲気になるのだろうと緊張していたかもしれませんが、天岸先生の軽快な大阪弁でのお話に、最初から大きな笑い声が聞こえてきます。ところが、「今朝目が覚めた時に何か感じましたか?」との質問に会場は突然静まりました。

毎日の繰り返しの中で、目覚めることに特別驚きも何も感じない私たち。
本来感受しなければならないところには感受性がはたらかず、どうでもいいところに感覚が敏感になっている。仏教とはこの感受性を大切にし、養っていくものでもあると先生は仰います。
身体と言葉と心は密接に結びつき、互いに影響していると仏教では説かれ、言葉を意識することによって感受性(心)を育むことにつながるのだそうです。

「子どもができた」と「子どもに恵まれた」。「ご飯を食う」と「ご飯をいただく」。

同じ事柄を指していても、言葉によってその意味付けが変わり、その人を育てていく力があることを、例をあげながら説明してくださいました。
そしてその感受性を育む中で、自分だけではなく、人の抱える喜び・悲しみに目を向けていけるという「共感」にも繋がっていくと締めくくられました。

天岸先生.png


<2日目>

■「お互いが照らし合い、それぞれを輝かせていく」 川瀬慈先生

音楽で生計を立てているエチオピアの職能集団について、映像を使って研究し伝えていらっしゃる川瀬先生。
先生は、研究対象に近付き、その人たちと直接コミュニケーションを取ることを含めた映像を作り出すという手法を、試行錯誤の上につくりだしてきました。

エチオピアの人たちの内側に入り、生活をともにする中で、文化的な規範やルールが見えてくる。
先生は客観的にエチオピアの人たちを第三者として切り出すのではなく、同時代に生きる仲間として、「あなたとわたし」の関係として捉えています。
その人たちがもつ文化が、自分たちよりも劣っているわけではないという前提に立った研究を紹介していただきました。

最後に、僧侶でもある川瀬先生は、「浄土の池に咲く蓮の花は、それぞれの色が個別に存在するのではなくて、お互いの花の色を引き立たせ合いながら、無数の光を放ち世界を照らす。民族や文化は数多くあるけれど、そこに優劣があるわけではなく、全体を個として考える。壁を作るのではなく取り払い、違いや良さを認め合って世界を照らすということを、研究を通して目指していきたい。」と締めくくられました。

川瀬先生.png



■ 「違いを理解し、想像する」 環ROY先生

環先生.png

いきなり即興のラップで自己紹介をしながら会場を歩き回ります。
頭ではなく、心から言葉が入ってくるような不思議な感覚。
ROY先生は言葉や国、文化、環境、習慣など様々な違いに話を展開していきます。

「違い」があるがゆえに、「わけへだて」が存在するのもある意味で当然のこと。
納得できないことが溢れる世の中であるけれど、それを納得できるようにしてくれるという役割が、宗教にあるのではないかというお話の中で、一つの歌を紹介してくださいました。

「なにごとの おわしますかばしらねども かたじけなさに涙こぼるる」(西行)目には見えないけれど、「誰か」や「何か」がいつもそばで見守ってくれている。

様々な違いが存在する世の中ですが、その価値観の違いを越えたところの共感や感謝を表しているようにも聞こえます。そして最後に、「生きることは伝達すること」と話され、言葉が違っても、文化が違っても、様々な方法を使って伝えようとすること、それは他者を想うことでもあり、「共有」・「共感」を生み出せるものであると教えてくださいました。



■ 「仏教を聞くということは、自分自身を見つめること」 小池秀章先生

仏さまの前で手を合わせるのは、お願いごとをきいてもらうためではなく、仏さまの教えを聞きながら自分自身の姿を見つめるということです、と小池先生はやさしく語られます。

お浄土というのは、どこかに空間として存在する世界ではなく、「大人の世界」や「子どもの世界」と表現するように、その立場、つまりさとりによって開けてくる世界であるとのこと。そのお浄土は、それぞれが光り輝く世界であり、「わけへだて」のない世界である。そのさとりの世界を聞かせてもらえばもらうほど、自分自身の自己中心性(煩悩)が見えてくるのですと小池先生。

いい人や悪い人などは一人もおらず、あくまでも自分にとって都合のいい人や悪い人と「わけへだて」をしているのが私たちであると気づかされます。

浄土真宗の教えを聞いたからといって自己中心的な私から離れられるわけではないけれど、そのあり方に申し訳ないなと気づくときに、違った世界が開けてくる。だからこそ私たちはお浄土という世界を聞いていくことが大切なのです、と教えてくださいました。

小池先生.png


【N】

この記事をシェアする

おすすめ記事

page top