レポート

現代版寺子屋 スクール・ナーランダ vol.3 東京

日 時: 2018年3月3日(土)・4日(日)  10:00~18:15

会 場: 築地本願寺(東京都中央区築地3-15-1)

対 象: 18歳~29歳

テーマ: 「わたしのため」と「あなたのため」のバランス

わたしたちは社会の中で他者と共存しながら生きていますが、現代社会における他者との関わり方はさまざまです。
どのように「わたしのため」と「あなたのため」のバランスを取って、社会の中で共存していくのか。
科学、芸術、仏教、それぞれの知見から学びました。

講 師: 入來篤史先生 (脳神経科学者)

アン・サリー先生 (音楽家/内科医)

小池秀章先生 (浄土真宗本願寺派僧侶)

林 要先生  (ロボット開発者)

三島有紀子先生 (映画監督)

葛野洋明先生 (浄土真宗本願寺派僧侶)


― 講義レポート ―

< 1日目 >

■「世の中を分け合うための、ニッチ(生態的地位)構築」 入來篤史先生

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「進化」という視点から見た、私たち人間の在り方について。
例えば、過去を後悔したり未来に絶望したりするのは刹那的に生きている他の動物には無いということ。また、自分と他者を同等に見たり、自分の視点で他者を、或いは、他者の視点で自分を見たりするという客観的視点も、人間が獲得したものということ。

そしてさらに、生き残るには様々な環境に適応する必要がある。
私たちは世界の一部にすぎず、相互作用するなかで初めて、自分の立ち位置や役割が見えてくる。
他との関係なくして自分はありえないといったことを、お話いただきました。

「これから」については、成長することが前提にある社会構造のなかで、成長にも地球というリソースにも限界があることを知った今、これまでとは違った新たな次元や方向性での成熟や成長を模索していくことが必要であると、若者たちへエールを送られました。



■「すべてをさらけ出すと、共感が生まれる」 アン・サリー先生

音楽家であり内科医である先生。
どちらが本業かは自分にもわからないとのこと。

音楽とは、答えのないことを表現するような、あいまいさのあるもの。また、感情を表現しづらい社会に対して感情を自由に表現できるものであり、自由であればあるほど価値があるとも言える。
ステージでは、内蔵までもさらけ出す感じ。すべて見てくださいと臨むとお客さんも応えてくれて、共感が生まれる。

医療も、目の前の人に応えていくもの。
しかし、投げかけられる様々な問いに対し、常に答えがあるわけではない。人間の体、生き死に、そうした究極の問には、誰も答えを持ち合わせていない。
実は医者も悩んでいるしトボトボ帰ることもある......とお話くださいました。

音楽と医療の共通点は、共感と交流、相互作用のなかにあるということ。そうした様々なお話とともに、生の歌声もお聞かせいただきました。

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■「分け隔てがある私たちと、分け隔てのない仏さま」 小池秀章先生

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「これが私だ」と私たちが思うものは実は大きなつながりのなかの一部分にすぎず、私たちは皆、先祖からのつながりやこれまでの人生でのつながり、そして今こうして会っているつながりなど、大きなつながりのなかにいること。
だからこそ、私を知ろうとするならば、私以外も知ろうとしなければならないということ。

また、「1本の草も1匹の虫もこの大自然、大宇宙が懇親の力で生かしている」と言われるほどにすべてがつながりあっているいのちには、大小も有益無益もないのに、雑草・害虫などと生活に役に立つか否かで判断をするのが私たちでもあるということをお話いただきました。

そして仏教とは、当たり前なのに私たちが普段忘れていることを説いていること。
分け隔てをする私たちに対し、分け隔てがなく、自利(自らがさとること)と利他(他をさとらせること)がそろっている存在が仏さまである(自利利他円満)こと。
そうした仏さまの願いや教えを通して自分を見つめていくのが浄土真宗という仏教とお話いただきました。



<2日目>

■「より良く生きるサポート、LOVOT」 林 要先生

ロボットやAIは、「人の仕事を代替するもの」と「より良く生きるサポートをするもの」の2つに大きく分けることができる。
前者は、例えば全自動洗濯機のように、人に向けた情報発信は少なく(=自動化)、存在感が不要なものであり、後者は情報量が多いことに価値があり、人に影響を与えて心を動かすものであるということをお話いただきました。

また、人は視覚・聴覚・触覚など3つの感覚器が動くと本物であるかのように錯覚するが、これは絶対値で判断する機械には起きない現象であること。
故に、人とロボットは仲良しになれるかもしれないということ。
さらに、人は「孤独」と「承認欲求」を20万年という歴史のなかで生き残るために獲得したが、安全な環境を得た今、遺伝子的な生存戦略とライフスタイルとの間にギャップが生じていること。
SNSやゲームなどがそのギャップを埋めていることもお話くださいました。

そしてその上で、「癒やしの時代」と言われる今だからこそ、「より良く生きるサポートをするもの」として人に寄り添える「LOVOT(ラボット)」を開発したのだと、LOVOT誕生の背景をお話くださいました。

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■「利他的行動は血縁関係にも関係するのかを考える」 三島有紀子先生 

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自分で処理しきれない感情を抱いたときに、全然違う人の人生を映画館で見ることによって、出るときにはもう少し生きようかなと思ってもらえるような映画をつくりたいと、映画への思いを聞かせていただきました。

阪神淡路大震災のときに感じた、「人間が人間と生きていくということは、分け合って生きていくということ」を表現した、『幸せのパン』。家族の形が多様化するなかで血の繋がりが一番なのかと、考え直したときにたどり着いた「結局自分以外は全員他者。そのなかで、親愛なる存在になったりならなかったりを繰り返していくことが生きるということ」を表現した、『幼子われらに生まれ』。そして、その人をどれだけ知ろうとするかが、他者を親愛なる存在にしていくとお話いただきました。

また、演技は作るものではなく自分の感情を素直に見つめていくものであり、自分の感情がどこにあるのか、どういうときに喜怒哀楽を感じるのかを見つめることは、日々の感情のコントロールに役立つ他、嫌なときに嫌と反応して身を守ることにもつながるということ。
日々のなかで、本当はこう感じているけれど押し殺しているな......と認識できることも大事だとお話いただきました。



■「阿弥陀仏の利他と人間に利他的行動を考える」 葛野洋明先生

宗教とは、「宗(むね)となる教え」。
人生の中心、拠り所(軸)となるものという意味で、人生の様々な問題を解決するのではなく、様々なことがある人生の根っこの部分を解決するものとお話いただきました。

足の小指をぶつけると、思わず、痛い!となるけれど、誰かがぶつけたとき、たとえそれが自分の子であっても、痛みは全くない。これが、自己と他者とを区別している私たちの在り方。

一方で、自己と他者との境界がないのがさとりの境地であり、あらゆることが自分ごとであるのが仏さまという存在。仏さまは、私が抱えている好き嫌い、どうでもいいといった判断基準とは関係なく、あらゆる人を同じように支えておられるということ。

また、仏教は「迷いとさとり」という軸で考え、仏さまはさとりの存在であり、自分で合う合わない、好き嫌いをつくっては、相手を傷つけて自分が傷ついて生きてきた私たちは迷いの存在であること。そうした中で、私とあなたは違う存在。
わかり合うことはできないのが当たり前であるなかで、違うことを互いに受け入れつつ、それでも同じことを感じたり共有したりできることはすごいことだと喜びながら生きていけたら、きっと豊かに生きていくことができるとお話いただきました。

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【K】

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