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レポート

現代版寺子屋 スクール・ナーランダ vol.5 佐賀

日 時: 2020年2月8日(土)・2月9日(日) 10001730

会 場: 佐賀県 願正寺(佐賀市呉服元町6-5)

対 象: 15歳~29

テーマ: あなたは、あなたが食べるものでできている。
        ~生きものの営み、土地、テクノロジー、「食」をめぐる考察

土地や自然、生きものや生産者と「食べ物」を通して関わり合っていること、バイオ・テクノロジーによって生物はどう変化していくのか、「いのちを取り込むこと」を仏教ではどのように捉えているのか。多様な講師陣から「食」をめぐる様々な物語を聞き、ともに考えました。

講 師: 藤島皓介先生 (宇宙生物学者)

     松月博宣先生 (浄土真宗本願寺派僧侶)

     花岡尚樹先生 (浄土真宗本願寺派僧侶)

     長谷川愛先生 (アーティスト/デザイナー)

     船越雅代先生 (料理家)

     嬉野茶時さん (嬉野茶生産者ユニット)


― 講義レポート ―

<1日目>

■「食事とはエネルギーの循環活動」 藤島皓介先生

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「皆さんは宇宙生物学って知っていますか?」誰ひとり知らなかった宇宙生物学が専門の藤島先生。その時間は未知への遭遇というワクワクとハテナで満ち溢れた時間だった。

「命とは何か?」「人は一体どこから来たのか?」生命の起源を探る研究の中で、最古の生物の姿から見えてきたのは、食事とは「酸化と還元」によってエネルギーを生み出す行為だということ。活動するのに必要なエネルギーを生み出す行為が食事の根源にある姿。
そう言われれば今の私たちも、例えば「駅の立ち食いソバ屋」で昼食を食べる時、運動の最中にエナジージェルを飲んでいる時、「エネルギー補給」という思いで食べていたりする。

この話から見えてきた私たちの将来の姿は、車がガソリンを補給するように、エネルギーを体に入れるだけの時代がくるかもしれないということ。しかし、そんな話を聞いた時、私たち一人ひとりの心の中に巡ってきたのは、「食べるということはただのエネルギー補給ではない、それ以上の喜びを与えてくれるものだ」という想い。

そんな私たちに藤島先生は一言。「化学反応を超えた部分に本当は喜びがありますよね」。そうなのだ。その食が与えてくれる豊かさに気づいていく旅がここから始まる。



■「自分が食べ物を産んだら、あなたはそれを食べられる!?」 長谷川愛先生

人が人間以外の生物を生むことが出来るのかを想像した「私はイルカを生みたい」プロジェクトや、同性婚カップルの間に子どもが生まれたらどんな食卓が実現するのかを想像してみた(im)possible babyプロジェクト。そんな想像をしたこともない世界を常日頃から想像し、新しい未来の可能性を探る学問をされている長谷川愛先生の講義は、私たちを一層思考の迷宮に誘ってくれた。

海外で研究を重ねてきた長谷川先生の周りには、ベジタリアンが多く、それによって何を食べながら生きているのかへの関心も段々と高まっていったそう。その時に、魚は美味しいものであり、生きているものを食べているという感覚すら持ち合わせていない自分に気づく。そんな思考をどうしたら変えられるだろうか?そこで頭をよぎったのが、「全ての食べ物は誰かの子どもだから、自分が食べ物を生んでみたら、同じ種類の食べ物を頂きますと食べれるのか?」という疑問。その疑問の答えを探るために「私はサメを産みたい」というプロジェクトを行ったとか。

結果的には、「産んでみないと分からない」と今は思っているそうだが、「生き物を殺して生きている」のが当たり前と思っている私たちへの大きな疑問の投げかけと感じた。

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■「人は殺しながらしか生きていけない悲しい存在」 松月博宣先生

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子どもの頃に出会ったカッコいいお坊さんに憧れて僧侶になった松月先生。
「見とけ、これが生きることだ」と、子どもの頃に縁日で買ってきたヒヨコを目の前で捌かれるという衝撃的な経験から始まった一連の話は、私たちが生きることの罪悪感と、その罪を背負ってくださる仏さまの温かな心で貫かれたひと時だった。

私たちは毎日毎食、多くの命を食して生きている。その命を目の前で奪う行為をしたときには、多少なりとも心に痛みを覚えたりもするが、時には「グルメ」という名のもとに楽しみながら他の命を奪っている。仏教ではそうやって殺生をする者は地獄に落ちると言われる。とすると、私たちが生きている事自体が、地獄に行くような有様なのだ。その事に私たちは気づかず生きている。いや、気づいてないフリをしているだけなのかもしれない。

その私たちの姿を仏さまはどう見たか?「人は殺しながらしか生きていけない悲しい存在だね」。では、そんな悲しみの存在である私たちはどうしたらいいだろう?それは「殺しながらしか生きていけないからこそ、せめてその命を無駄にしないように生きていこう」。

頂いた命への感謝の想いの中で生きること。これだけは忘れないようにしたい。



<2日目>

■「私は携わる人たちの想いを伝える媒体」 船越雅代先生

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ニューヨークやサン・フランシスコのレストラン、太平洋を巡る船、バリ、スウェーデン、そして日本、世界中を巡りながら食の在り方というものと向き合ってきた船越先生。その中で気づいたのが、不自然なあり方で存在する食べ物たちの存在。
例えば「なんでタヒチにフランスから届いた冷凍食品があるのか?それは本当にタヒチの人たちの心と体に必要とされているものなのだろうか?」。そう聞くと、私も一体どこから、誰の手によって作られたのか分からないものによって生きている現実に、不気味さを感じてしまう。

その一方で伝えてくれたのが、そこから見える景色の中にある食材だけで作り上げた食材アートや、地域の食材や地域の人々とともに循環型社会を築きあげているレストランの素晴らしさ。

「生きるために食べる」ことは多くの動物たちがしている行為であるが、「食べることに喜びを見出す」ことは人間しかなしえない。なぜ食べる行為に喜びを感じれるのか?それはお皿や食材、一つひとつに関わっている方々の心を感じるから。そういった人々の想いが一つに紡ぎあげられたものが「料理」なのだ。



■「食べ物も人も、私たちはつながりの中で生きている」 花岡尚樹先生

人生の最後を迎える施設・ホスピスではたらいているお坊さん花岡先生。

施設で「人生の最後に食べたいものは?」と尋ねると、高級な料理の名前は出てこないそう。出てきたのは「サバ缶」や「餃子の王将」。それは決して栄養素として欲したのではなく、自分自身の人生の思い出を、香りや味とともに思い出せるから欲するのだろう。

お釈迦様が最初に説かれたことは「縁起」という思想だった。それは誰とも繋がっていない<私>という存在はどこにもなく、数多のつながりの中で<私>は生きているということを教えてくれる言葉だ。

私たちは生まれてから死ぬまで、何万回と食事を摂る機会があるが、ただ食べているのではない。家族と、友人と、同僚と、私を取り巻く数多の人々と一緒に食事をする。その行為を改めて考えてみた時、その人々との「時間」を愉しむことが、食事の愉しさになっていることに気づく。

「あなたはあなたのたべたものでできている」。私たちは多くの方々と共有してきた「食事の時間」によって<私>になっているのかもしれない。

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■「お茶一杯にお金を払う価値が見いだせる時間・空間を」 嬉野茶時さん

二日間の締めに登壇して下さったのが、「お金を出しても、一杯のお茶を楽しんでもらえる時間・空間を提供したい」という意欲的なプロジェクトを展開している嬉野茶時さん。
特徴は、お茶の生産者がティーセレモニーを披露し、生産から顧客に届けるところまでを一貫して行っている点。これにより顧客にとっては、造り手の顔や、お茶の背景が見えることで、1杯のお茶に込められたストーリーを味わえ、一層味わい深くお茶を愉しむことができる。一方、造り手にとっても顧客の顔が見えることで、もっとこのようなお茶を作りたいという想いが沸き、好循環が生み出されている。

嬉野茶時さんは嬉野茶の生産者ユニットで、嬉野に昔からある「温泉」「嬉野茶」「肥前吉田焼」という3つの伝統産業を活かしながら、「食す」「飲む」「観る」ということを愉しめる時間を考案。

披露して下さったティーセレモニーはまさに芸術の域。お茶を媒介としながら、売り手・買い手・造り手・社会、その全てが潤う道を示してくれた嬉野茶時は、今からの地域社会の一つの在り方を提示してくれたものにみえた。

この日一日を通して教えられたのは、食べ物・飲み物と共にある豊かな「時間」の存在だった。

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【F】

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